清水辰次郎   --> English version

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つぎの記事は Mathematica Japonica, Vol. 40, No. 1, Whole number 166 のページ 2 からの引用です。


A sketch of the life of Dr. Shimizu

    In 1897, born in Tokyo. In 1924, graduated from the Department of Mathematics, School of Science, Tokyo Imperial University and continued his work at the same department as a staff member.
    He opened a new way to the generalization of Nevanlinna's theory in meromorphic functions and established the famous theorem in the theory of meromorphic functions, called Shimizu-Ahlfors theorem later on. In addition, with the idea of function group, he attained a profound result on the construction of Riemann surface of meromorphic functions.
    In 1932, he became professor of Osaka Imperial Univeristy and contributed to the establishment of the Department of Mathematics in the School of Science. At this stage, he became interested in the field of applied mathematics based upon his pure mathematical potentialities, especially in mathematical methods in science and technology, non-linear oscillations, existence conditions of limit cycles, numerical analysis, artificial intelligence, and computation machines and devices.
    On the other hand, he recognized the importance of publishing a new mathematical journal to put on qualified papers of pure and applied mathematics in general, when the publication of mathematical papers was so difficult, besides the journal of mathematical society of Japan. Actually, he started the publication of the journal "Mathematica Japonicae" using his own fund in 1948.
    In 1949, he left Osaka University and became professor of Kobe University. Around this time, he became interested in operations research and mathematics in management sciences, and also probability theory and mathematical statistics.
    In 1951, he moved again to professor of mathematical sciences of University of Osaka Prefecture and continued the publication of Mathematica Japonicae. On the other hand he continued his work on the artificial intelligence, especially solving arithmetic problems via electronic computer. Also, he continued his research work on the nonlinear oscillations.
    In 1961, he became professor of Science University of Tokyo. There, he continued his effort of research work in applied analysis, especially in nonlinear oscillations, pursuit of solutions of ordinary differential equations, and the pursuit of numerical solutions.
    Every time, he talked at the meeting of Mathematical Society of Japan, until 90 years of his age.
    In between this period, Japanese Association of Mathematical Sciences was established and "Mathematica Japonica" became published by this Association. Now, Mathematica Japonica became an international journal of mathematical sciences in its broader sense, circulating in the world, with international advisors and referees. Such a development of Mathematica Japonica is due to the freedom and borderless idea of mathematics of Dr. Shimizu.
    He passed away in Uji City, Kyoto Prefecture, on November 8, 1992, with the age 95.

June 30, 1994

    Hiroshi Sugiyama
    Professor Emeritus
    Osaka University

《高木貞治先生生誕百年記念誌》からの抜粋

談話会事始

清水辰次郎

    私は高校時代から数学の専門書を少しばかり読んでいて、 特に解析学の勉強に熱心だった。 そんなわけで大学に入学したときから函数論の方面に力を入れていた。 そのかわりに代数学や整数論はよくわからなかった。
    大学入学の年(一九二〇)高木貞治先生はその立派なご研究を もってヨーロッパに出張されており、代数学の講義は当時東北帝大の教授であられた 藤原松三郎先生がなされた。そのためもあってか、高木先生のご研究の重要さに ついてはほんとうには理解できていなかった。
    私はその後函数論のうち特異点の研究に興味をもち、三年生のとき のゼミでは、微分方程式論がご専門であった吉江琢児先生について勉強していた。
    しかし他の先生のゼミに出席することができ、たまたま高木先生 のゼミで解析学をやっていた学生のときであった。そのときの先生のお話のなかで、 函数論でもその特異性の研究の前に正則性そのものの研究が先であることを教えられた。その後私の研究方針は正則性、有理型性そのものの研究に変っていった。たまたま当時 ネヴァリンナの研究の影響もうけて、有理型函数の研究に力を尽すことになった。
    私は長い間助手として先生方にお世話になっていたが、高木先生が 大阪帝大の創立委員となられて先生のご推薦で阪大に移った。
    その後もいろいろお世話になり、深く先生に感謝する気持をいつも 持ちつづけている。

(清水辰次郎氏より小松醇郎氏への手紙、昭和五十四年五月)

    『日本の数学百年史』についてお尋ねの件について記憶をたどって お答えいたします。
    私は大正九年(一九二〇)六月一日一高を卒業、九月に東大数学科 に入学、翌年三月で一年の課程が終り、四月から二年の課程に入りました。ちょうど 九月入学から四月入学への移り変りの時でした。当時の先生方は藤沢利喜太郎先生 はじめ坂井英太郎、高木貞治、吉江琢児、中川栓吉の諸先生でした。 大正十年四月から二年生の講義が始まりましたが、私は病気がちで学校へは時々出席 しただけでしたので、翌十一年あらためて二年の講義を聞きました。藤沢先生は 十一年三月に停年でおやめになり、竹内端三先生が一高から移られました。 私は大正十三年三月に卒業しましたが、その前に十二年秋ごろから論文を書き始め、 他の学生の人たちとは別に、高木、吉江両先生にはいろいろとお世話になりました。 十三年四月に、卒業と同時に助手として勤めることになりました。高木先生が一年間 外遊中(大正九年七月〜十年五月)、東北大学の藤原松三郎先生が代って代数学の 講義をされました。
    当時先生方には、学生と年齢の差も大きく、容易に近づけ なかったのですが、藤原先生には近づき易く、何かとお世話になりました。 研究発表もおすすめいただき、早くから日本数学物理学会へも出入りしました。
    私が助手になってから数学談話会が原則として毎月行なわれ、 東大と東京高師とで隔月に開かれました。メンバーは高木、国枝元治、掛谷宗一の 三先生が主で、吉江先生も時々お見えになりました。また当時の一高の先生方( 渡辺孫一郎先生、辻正次さん、田中正夫さんたち)や私なども出席していました。 そのうち(大正十三年五月)末綱恕一さんも九大から東大助教授として帰って来られ ましたが、やがて(昭和二年六月)外遊されました。そんなわけで東大での談話会の 世話はずっと私がしましたが、高師の方の世話は掛谷先生ではなかったかと思います。 高師の会に出席したのは、高木、国枝、掛谷、杉村欣次郎の先生方と、当時の高等 師範の先生方(佐藤良一郎さんもいました)と、私たちでした。
    東大での談話会の内容は記録を取っていなかったのではっきり 覚えていませんが、会の主役は高木先生と掛谷先生でした。高木先生のお話は 代数的(類体論のようなものでなく、代数方程式の根の限界とかいうような小味)な ものや、解析的なものでした。掛谷先生のお話も大体同様なものでしたが、きわめて 独創的なお考えにより、新しい定理や証明が数多くなされました。私なども時々 話しましたが、大部分は掛谷先生の話であったように記憶しています。
    談話会のあとは、どちらの場合にも帰りに小さい料亭で夕食をし、 お酒をあがりながら雑談(といっても数学の話もありましたが)するのが例でした。 東大での会のあとの食事は私が世話掛りでした。大正の末にはいくつか新しい高等学校 (旧制)が設立され、多くの卒業生が教官として出て行かれましたので、大学院に 残る人はほとんどありませんでした。東大の談話会に大学院や学部の学生が出席する ようになったのは、しばらくして、寺坂英孝君(当時一高の先生)、南雲道夫君、 毛利集雄君、つづいて彌永昌吉君、福原満洲雄君たちのころからだったと思います。 私は昭和七年(一九三二)七月から新設の阪大に移りましたが、この談話会がいつまで つづいたのか、あるいは消滅してしまったのか、はっきり知りません。
更新日:2000年8月2日
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